伊達紋

現代では耳にすることがほぼ無いに等しい伊達紋とは何か?
決して伊達家の家紋、例えば仙台笹などでは無い。

第一話 「伊達紋とは」

伊達紋とは、紋所の位置に付けるが家紋ではない。家紋のような制約もなく、デザインも自由で文様や絵画に近く、装飾を目的としたものである。
決して伊達家の家紋の事ではないという事をまずご理解して頂きたく思う。中には勘違いされている方がおられるようなのである。

伊達紋らしきものの最も古い記録は、桃山と江戸の過渡期とされているが、やはり普及に繋がったのは江戸時代中期であろう。
永い戦乱時代が終わった平和で華やかな元禄時代。庶民も自分の好みの紋を作り楽しみ始めていた。また逆に武士の方が庶民の家紋を真似て取り入れるという逆転現象も見られた時代でもある。
それは家紋のデザインを発展させると同時に家紋制度を乱し始める事にもなった。そしてこの事が家紋デザインのバリエーションを増やすこととなり、家紋の数が急激に増え始める事となったのである。

この頃、流行していた洒落紋は「鹿の子紋」「鏡紋」「比翼紋」「縫い紋」「加賀紋」「ひょう紋」、そして「伊達紋」などであった。

  • 鹿の子紋
    疋田(ひった)絞りで染め上げた紋。疋田(目結・めゆい)ともいう。絞り染の一種で子鹿の背の斑点に似ている事からこの名が付いた。
  • 鏡紋
    家紋を砂地形に染めたもの。当時の鏡の裏には砂地形に似た小さな点突起があったことから名付けられた。
  • 比翼紋
    男女の異なった家紋を並べ重ねたもの。あるいは同一家紋を日向と陰で表し、並べ重ねたもの。合成紋の一つ。
    ※詳しい説明と画像は女紋特設ページ「女紋のデザイン 合成紋」をご覧下さい。
  • 加賀紋
    家紋の替わりに文様を友禅技法により表したもの。後には彩色しない家紋も組み込まれたものも登場する。
  • ひょう紋
    徳川時代以前から続いていたもので、一箇所に2~3個の家紋を配し、それぞれ異なった彩色をした。

日本紋章学によると伊達紋とは
『俳優や侠客や市井の遊治郎が好んで用いたもので、歌や名所や故事などにちなんだ図案を考案し、家紋のように衣服につけたのであるが、これは紋章をいうよりは、むしろ文様に近いものであったらしい。』
とある。
また「伊達」は広辞苑によると、

1、意気を競うこと。おとこぎを立てること。 → いき。
2、はでに振舞うこと。
3、見えを飾ること。見えを張ること。

と、このように記載されている。つまり家紋ではなく装飾目的であった事が分かる。

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第二話 「雛型1」

当時から流行り出した飾り紋は「ちらし紋」「よせ紋」「だて紋」と呼ばれ、加賀紋と並び雛型にも多く残されている。そして着物の形や模様の絵付け、また着こなしも現在とは違っていた。

では年代順にその雛形を見ていこう。

『友禅ひいながた』「梅」
友禅ひいながた「梅」
貞享5年(1688)
伊達紋がまだ小さく迫力に欠ける。

『和国ひいながた』「ちらしもん唐うち王」
和国ひいながた「ちらしもん唐うち王」
元禄11年(1698)

女中達紋盡1 女中達紋盡2
女中達紋盡3 女中達紋盡4

『女中達紋盡』元禄10年(1697)
かなりダイナミックなものが99図紹介されており、
1700年頃から伊達紋が相当に流行していたことが裏付けられる。

常磐ひながたに紋くづし雪二枚竹
常磐ひながた「紋くずし雪二枚竹」
元禄13年(1700)

『花鳥雛形』「なにはだて紋」
花鳥雛形「なにはだて紋」
元禄16年(1703)
『花鳥雛形』「江戸だて紋」
花鳥雛形「江戸だて紋」
元禄16年(1703)

友禅と加賀紋より

これらは各15点ずつ掲載されており、『なにはだて紋』には円形が多く、『江戸伊達紋』は菱形が多い。それぞれに地域の違いが見られる最初の雛形であり、また「よせ紋」というよりは中心まとめの構図である。

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第三話 「洒落と粋」

下記画像の2点が小袖に誂えられた本来の伊達紋である。
見ての通りの豪華さや派手さ、そして豪快なまでの伊達紋。衣装のようなものには違いないだろうが、当時の華やかな光景が目に浮かぶようである。

伊達紋
(江戸中期頃のもの)

石畳に鷹楓滝文様小袖
石畳に鷹楓滝文様小袖

染分地藤に花車文様小袖
染分地藤に花車文様小袖

両小袖は友禅染めに刺繍が施されたもの。伊達紋はいずれも刺繍紋である。
画像左の伊達紋、石畳に鷹楓滝文様小袖は中でも大変ユニークなもので、簡単な解説をさせて頂く事にしよう。

これは5つ紋で文字の伊達紋である。
後ろ側右から「紅鷹・こうたか」「舞鷹・まいたか」「若鷹・わかたか」。
前が「紫鷹・したか」「黄鷹・きたか」。
これは「こうたか」「まいったか」「わかったか」「したか」「きいたか」と読み、このような言葉遊びが粋とされていたのである。
「鷹」とは「夜鷹」、つまり女郎のことであり、特に派手な伊達紋は遊女などに好まれたようだ。

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第四話 「雛型2」

これまでの伊達紋だが、大きいといっても紋章としての場所には一応収まっていた。
しかし宝永元年(1704)から急に巨大になり、享保時代以後しばらくは続くのである。
これは「丹前紋」と称し、この頃から帯びの巾が広くなったため、着物の模様が上下に分離されたことがこのような絵付けになる要因であった。つまり紋というより上下違う模様と解釈できるのではないだろうか。

丹前ひいなかた「九十八番」
丹前ひいなかた「九十八番」
宝永元年(1704)

正徳雛形
正徳雛形
正徳三年(1713)

花陽ひいなかた「百八番」
花陽ひいなかた「百八番」
宝永五年(1708)
西川夕紅葉「百七番」
西川夕紅葉「百七番」
享保三年(1718)
今様染分四季雛形
今様染分四季雛形

享保三年(1718)
今様染分四季雛形
今様染分四季雛形
享保三年(1718)
雛形春日山
雛形春日山
明和五年(1768)
雛形春日山
雛形春日山
明和五年(1768)
伊達紋袖鏡
伊達紋袖鏡
明和六年(1769)

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第五話 「時代の流れ」

華やかな元禄・宝永・享保の時代が過ぎると禁令の時代がやってくる。宝暦年間(1754)に入ると小袖の模様も、紋腰模様も派手さがなくなり、表は地味にして裏に模様をつけるようになる。
幕末期には小模様の御所解や、家紋のついた裾模様へと移っていったのである。

雛形袖の山「六十七」
雛形袖の山「六十七」
宝暦七年(1757)
雛形袖の山「九十一」
雛形袖の山「九十一」
宝暦七年(1757)

伊達紋は雛型1雛型2で紹介したものをふくめたこれらの雛形により、多くの人々の目に触れ、江戸末期まで盛んに用いられたという。しかし当初の雛形を見ている限りでは加賀紋との決定的な違いは見いだしにくい。
ところが伊達紋は俳優、侠客、粋好みの人々に好まれ、加賀紋は加賀の上級武士、家柄町人、風流人に着用されたという。また伊達紋が元来刺繍で表したものに対し、加賀紋は友禅染めのみに拘った。
それも現代では加工技法の向上と共に再びその違いが曖昧になっているのだ。

いずれにしても家紋という決まりから離れ、洒落や粋さを誇ったのが江戸時代。
今の私達が忘れている何かを思い出させてくれる、ある面良き時代ではなかったのではないだろうか。

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京都家紋研究会

家紋を探る(ブログ)

森本景一
1950年大阪府生まれ。
染色補正師、(有)染色補正森本代表取締役。日本家紋研究会理事。
家業である染色補正森本を継ぎながら、家紋の研究を続け、長らく顧みられなかった彩色紋を復活させる。
テレビやラジオなどの家紋や着物にまつわる番組への出演も多い。
著書に『大宮華紋-彩色家紋集』(フジアート出版)、『女紋』(染色補正森本)、『家紋を探る』(平凡社)があるほか、雑誌や教育番組のテキストなどにも多数寄稿している。

森本勇矢
染色補正師。日本家紋研究会理事。京都家紋研究会会長。1977年生まれ。
家業である着物の染色補正業(有限会社染色補正森本)を父・森本景一とともに営むかたわら、家紋の研究に取り組む。
現在、「京都家紋研究会」を主宰し、地元・京都において「家紋ガイド(まいまい京都など)」を務めるほか、家紋の講演や講座など、家紋の魅力を伝える活動を積極的に行なっている。
家紋にまつわるテレビ番組への出演や、『月刊 歴史読本』(中経出版)への寄稿も多数。紋のデザインなども手がける。
著書に『日本の家紋大事典』(日本実業出版社)。
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